あなたに感謝と幸福を



夜も更けた頃、蝋燭の明かりが照らす一室。
そこには椅子に腰掛けたフレデリカと、ローゼル族の村娘ひとり。鋏と剃刀を並べる音のみが響いていた。
「…本当に、よろしいのですか」
村娘が申し訳無さそうに声を掛ける。通夜でもあったかのような重苦しい空気の中、フレデリカは優しく振り向く。
「ええ、かまいません。思い切り切ってください」
「ですが…」
「私は平気です。もう決めたことですから」
フレデリカはそう伝え、正面を向き直した。
逡巡した空気がしばらく流れたが、やがて村娘は鋏を手に取り、フレデリカの髪を断ち始めた。ぱさり、ぱさりと薄紅色が地面に落ちていく。ああ、切ってしまった。その様を見てフレデリカの心が傷んだ。今までの自分自身には戻れないという恐れが押し寄せるが、すんでのところで踏み留まろうとする。
(そうだ、これは私が決めた事なのだから…)
後悔はしない。これは母がなし得なかった道を歩むために必要なのだ。フレデリカはそう自分に言い聞かせながら、膝の上の掌を固く握りしめた。


*****


セレノアと、そしてウォルホート領と袂を分かつようになった後、フレデリカは一人ローゼル族の村を訪れた。ノゼリアの地に眠る岩塩の存在を教えてくれた事の感謝と、彼女が「亡き母親の教えを人々に説く」道を進むと報告するためであった。
出迎えた村長とジェロム、そして村の者達は手厚くフレデリカを受け入れ、彼女の話を真摯に受け止めていた。ウォルホート領を離れるまでの経緯を伝えた後、フレデリカはたった一つの申し出をした。
それが剃髪だった。
その場にいた者達は考え直せと伝えたがフレデリカの意志は固く、もう止めることはできないと誰もが悟った。
「手伝いとして後から娘たちを呼びましょう」と、村長は悲しみを含んだ声で答えた。
「どうかあなたは強く生きてください」と、ジェロムはフレデリカと固い握手を交わした。
ありがとうございますと、何時もの微笑みを携えた彼女はその場の全員に謝辞を述べたのだった。


*****


どれぐらい時が経ったのだろうか。
フレデリカも村娘たちも言葉を一切交わさず、鋏と剃刀の音だけが部屋の中に響く。
床に散らばった髪を、他人事のようにフレデリカはぼうっと眺める。ローゼル族を象徴する薄紅色は身を離れた後でも鮮やかさを保っていた。美しくも儚い色からフレデリカは想像する。この村で発見した岩塩、似た色をした布地、桃の果実、薔薇の花。

『私は、あなたの髪と同じ色の薔薇が好きなのです』

セレノアの言葉がフレデリカの脳裏をよぎる。急に出会った族と交戦した後にも関わらず、彼は穏やかな面持ちで語りかけた。彼の微笑みと共に、柔らかい日差しの気持ちよく晴れた日の出来事だったのを彼女は覚えている。
目頭が熱くなるのを感じ、フレデリカは咄嗟に瞳を閉じた。
(ここで泣いては駄目…きっと立ち直れなくなる…)
フレデリカは強く自分自身に言い聞かせる。母の遺志と種族の想いを継ぐため、これ以上気持ちが揺らぐ事があってはならない、これではセレノアに顔向けできないではないかと自身を責めた。
いつまでも何もできないと思い悩む惨めな姿ではいられないと、セレノアと道を違えた時にフレデリカは心に誓っていた。その姿をもう彼に見せる事がなくても。



「フレデリカ様、終わりました」
村娘の声でフレデリカの意識が現実に戻る。
眼を開き、手鏡を手渡される。髪がないだけでこうも印象が変わるのかとフレデリカは思った。少しやつれていたが、初めて自分の役目を手に入れた一人の女の姿がそこにはあった。
「ありがとうございます。おかげでより清々しくなった気がします」
「そうですか、良かったです…」
村娘の少女は神妙な面持ちのまま、フレデリカに一つ尋ねた。
「もしよろしければ、この切った髪を一束ほど残しましょうか?」
「髪をですか?」
「はい。綺麗に伸ばしていらっしゃったので、記念に残すのも悪くないかと思いまして」
フレデリカは返答に詰まった。自分の髪を残すなど全く考えていなかったのだ。
「…すみません、出過ぎた事を話してしまいました」
「いいえとんでもないです!…でしたら、ご行為に甘えてさせて頂いても良いですか?」
「分かりました。編んでから、お渡し、いたします…」
村娘はフレデリカにそう伝えた途端、緊張の糸が解けたのか涙を流し、顔を手で覆ってしまった。大丈夫ですかとフレデリカは語りかけながら彼女の肩に手を置く。
「ごめんなさい…フレデリカ様の方が辛いのに、私が泣いてしまうなんて…」
「…謝る事はありません。あなたは、相手の事を思いやれる優しい方なのですね」

村娘の暖かい言葉がフレデリカの心に響き、涙を留まらせた。自分だけが不安ではない、ローゼル族の皆も同じ気持ちでいる事を確かめながら、村娘と共に肩を抱き合った。
蝋燭の火は慎ましく、二人の姿を照らしていた。



宛てがわれた部屋に入り、フレデリカはベッドに腰を下ろし溜息をつく。
村長からは好きなだけ滞在すると良いと提案を受けたが、ハイサンドの要人にも顔を知られているため長居はできない状況だった。村に行く道中で服や食料などは手に入れていたため、明日にでも村を発ち尼僧として放浪しようという予定でいたが、全く宛のない旅になるため言いようのない不安をフレデリカは感じていた。
しかし、もう気持ちが揺らぐ事はなかった。今までで一番過酷な道になるだろうとジーラも彼女に伝えていたが、辛い道でも選ぶ理由をフレデリカは知り、見過ごす事は出来なくなっていた。

まずはローゼル族の真実を道行く人々に伝え、信じる者たちを増やす。一人だけでは塩湖の同胞を救うことは出来ないが、同じ道を志す者が増えれば、救う可能性を見出だせる。そしていつかは彼等とセントラリアを目指す、人生を賭けた長旅だ。夢物語だと呆れ、もしかすると中傷する人々もいるかも知れない。それでも何も行動を起こさないまま心が死んでいく事にはなりたくなかった。きっとセレノアも理解して…。

「もう思い出さないでおこうとしたのに、どうして…」
静かに、フレデリカの頬が涙で濡れていく。
セレノア・ウォルホートという男はフレデリカの中で想像以上に大きな存在となっていた。それは一人の領主として、仲間として、婚約者として。彼の決断もまたフレデリカの信念を変え、熱く強い想いが育っていったのだ。
彼女は懐から浅緑色の小さい袋を取り出し、両手で握りしめる。先程残したフレデリカの髪は村娘が三つ編みにし、お守りのように仕舞われていた。浅緑色はローゼル族がよく使う布の色だった。
フレデリカは袋を額に寄せ、背を丸め声を殺して嗚咽を漏らした。この世界が許すならば、本当はセレノアと共に歩み続けて行きたかった。手料理をまた振る舞いたかった。愛する者に刃を向けたくなかった。帰る場所を教えてくれた事、一緒に星空を見た事、髪の色を褒めてくれた事、グリンブルグ公国の港に降り立ったあの日からの出来事が走馬灯のように駆け巡り、フレデリカの涙となって滴り落ちて行く。
「ごめんなさい…。今夜だけは、許してください…」
彼女は咽び泣きながら許しを請い、セレノア、と愛しい者の名前を呼んだ。


*****


あなたの揺るぎない信念の強さは、私には到底敵いません。
道が別れて二度と会うことがなくても、どうかあなたは強く生きてください。
あなたを愛した者より。


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